母性(1回目)

母性とは透明な器なのではないだろうか。
薄いのか厚いのかは分からないし、何を注ぐかで色も、温度も変わる。何もいれなかったら、在るのに無いようにも見える。光が注げばきらきらとするし、灯りが落ちれば歪む。
出来ればその器は美しく品良く見えるものであって欲しいと願う。でもきっと自分には見えずに成型されていくものなのだろうと思う。

が、見た後に思ったことだ。
なんとも抽象的な感想になってしまったのはもうひとつ初体験をしたからだと思う。

ルミ子にわたしは戸田さんの芝居の軸をはじめて感じなかった。そこで喋っているし、話しているし、微笑んだり、泣いたりして感情を顕にしているのに、だ。
いつもと違う芝居を目の当たりにして戸惑った感情になったまま十数メートル先で流れる映画を観ていた。
集中力は戻らなくて、ルミ子が『愛してる』と言ったときにそれは何に?と、意識が戻ったような気がする。
ルミ子は愛してると言われることを望んでいる人なのになんでそんな言葉が出て来るんだろうと。

そもそもルミ子は愛されている子だったんだろうかと思ったりもした。清佳が祖母から感じたのは『無償の愛』だったと言っていた通り、見返りを求めずに尽くすことをルミ子の実母は誰彼構わずにしていたんじゃないだろうか。
ルミ子にではなく、その対象は広く自然や世界に対してだったんじゃないだろうか。そうであればルミ子が愛されることに対して執着する気持ちがしっくり来るような気がする。

お日様と湖

ルミ子と田所をそう喩えたルミ子の実母はわたしは畏怖を抱いてしまった。ルミ子の喜びそうな褒め言葉がそこに見えたからかもしれない。
ルミ子は「大切な」だとか「大事な」とかは言われて来たし、間接的に愛する娘とも言われてきたけれど、面と向かって分かりやすく愛してるわ、大好きよとは言われていなかったんじゃないだろうか。
愛情だと受け取っていたものにどこか物足りなさを感じていたから母のいちばんをいつまでも欲しがっていたんだろうと。
ルミ子の愛してるは悲鳴で叫びだった気がする。

愛能う限り

それは出ていけば戻らないもので、湧いてくるものでもなくて苦しくてもつくっていくものなのかもしれないなとそんなことをぼんやりと思っていたら、エンドロールが終わって場内がゆっくりと明るくなった。