あの日のオルガン

2019年5月5日 in CINEMA Chupki TABATAにてあの日のオルガンを見てきました。
去年の8月から通算6度めの鑑賞。
昨日に代々木八幡のHININE NOTEで映画記録ノートを作ったんです。いちばん最初に記したいと思ったのが戸田さんの出演されている映画だったので、あの日のオルガンの上演館を調べて予約の取れたそこに行って来ました。
初めての映画館。
ユニバーサルデザインを重視した小さな小さな映画館でした。

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商店街の端っこで控えめに佇んでいる映画館はキャパがおそらく26席くらい。贅沢に一番前の端っこに座って予告を眺めてスタートした映画は字幕付きでした。

 楓 うさぎさんうさぎさん―――

と言うような。
この映画は楓さんの紙芝居の声から入ったんだと思い出しました。柔らかい楓さんの声。劇中で光枝(みっちゃん)さん揶揄されていた鬼瓦とは程遠い優しい声。
もう、ここから楓さんにわたしたちは、(子どもたちは)守られているんだなと思いました。

わたし今日はすごく劇中に入った気がする。
客観視している部分も確かにあるけれど、いちばん最初は防空壕の中で紙芝居をウキウキしながら見ている子どもだったと思う。
途中で象さんって土の中から出てくる動物を言っちゃう子どもに、うん、そうだね象さんだけど毎回わくわくするね。って頷きたかったし、もしかしたら今日は象さんじゃないかもしれないとか言いそうになったり。
戦火で逃げなきゃいけないのに楓先生の裾引っ張って今日もあそこにちゃんと逃げられたら象さんのお話してくれるの?とか一緒になって聞きたかったし、走れるけれど楓先生が抱えてくれるならわたしもっと小っちゃかったらよかったなとか思ったり。
子どもの視点にいることが多かった気がする。
それは戦争と言う史実を、例えばはじめてコンクリートの上で転んだ時にすりむけて膝が痛いよりも熱くなるんだとか痛みをはじめて知るときのような、「痛み」を吸収していく感覚に近かった気がする。子どもの視点がいちばん吸収しやすかったのかもしれない。
見ていく内に保母さんの視点に立つこともやっぱりあって、楓さんも年相応の愛らしい部分があるなと思ったのは、いちばん最初に妙楽寺を掃除するところ。雑巾がけを黙々としているんだけれど、一息吐いたときに仏具に頭をぶつけて怒鳴る楓さん。
一回、ばーっと言い切ったら正子さんが「ぱーっとなった花火がきれいだな」と花火を歌いながら新しい雑巾をリレーみたいに放り合って何もなかったように雑巾がけに戻るところがなんだかとても好きでした。
そうこうして、妙楽寺疎開保育園と言う立派な看板が掲げられて、子どもたちの歌声とみっちゃんの弾くオルガンの音が境内に響いて寝顔を守っていこうと言う場面も喜怒の表現が乱気流みたいな楓さんっぽいなと。

あと、いちばん印象に残っているシーンはずっと初見から変わらないのだけれど、赤く染まった空のところ。
あの赤い空がいつまでも続くずっと追いかけてくるのを想像すると逃げ場もどこもなくて絶望にも近い気持ちになった。翌日の無条件降伏が出て戦争は終わったけれど、救われた気持ちに至るまでどれくらい掛かるんだろう。
考える隙間が欲しいなと思っている内に映画は終着に向かう。
ふつっと意識が戻ったのはやっちゃんを見送った楓さんの嗚咽と後ろの席で声をあげて泣いている年配の方の声だった。本当に終わったんだと、気持ちが切れたらふっつりとわたしも泣けてきた。
なんの感覚か分からなかったけれど、声をあげて泣いていた方の声が心の底から安堵したときのそれに近くて、勝手にその方の中の戦争が今この瞬間に終わったんだと思えて、この小さな空間でこの映画を観れたことにわたしもようやく『あの日のオルガン』の感想を綴りたいなとなりました。

エンドロールも終わって空間が明るくなったら、通路を挟んで隣に座っていた老夫婦がこの映画のパンフレットを買って帰ろう。と言っていて、この小さな映画が広がっていく瞬間にも立ち会えた気持ちになりました。

今日観れて本当に善かった。
繋げていきたい映画だなと本当に思います。

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